高校生の頃、放課後になると隣の高校に通う友達とばかり遊んでいる時期があった。
僕の通う高校よりもひとつ、勉強の出来る子たちが通う学校だったのだけど、彼らのたぶん夏休みの宿題のワークブックのタイトルとして表紙に印刷してあった「数学の波に乗れ」という言葉が今でも印象に残っている。
勉強が出来る子たちの宿題にしてはずいぶん幼稚なタイトルだったから。

僕は数学の授業を、高校二年生の時点で放棄していて、その後入試に数学のテストがない大学へ進んだからまあ良かったものの、今にしてみればなかなか危険なことをしたものだと思う。

僕にとっては数学は、当時からずっと「よく分からないもの」として整理してある。
分かろうとしても分からないもの、やがて、分かろうともしないもの。


大人になって、いま。
時々なんとなく思うことのひとつに、
「分からないものは分からないままに」ということがあって。

こういうふうにどうして思うのかまだよく分からないけど、とにかく、ときどき、そう思う。


転じて。
いま、ほんともうそも、たくさん情報がある。ネットで調べたり、そのなかでこれはほんとかもとかちがうかもとか、とにかく情報がたくさんある。
でもどれも遠くて。

自分の手や想いの届く範囲は自分で分かる。それに対して、僕らに見えている世界や世の中は広すぎる。
分かるような気がするだけで、やっぱりそれは、分からないものだと思う。


戻って。
「数学の波に乗れ」という馬鹿げたタイトルのワークブックを思い出す。
分からないものの波に乗れ。
波に乗る、ということは、その水に潜らない、ということだ。
圧倒的な海の体積に潜らず、沈まず、濡れることもなく、うまく波に乗って切り抜けよと、そういう言葉に思えてくる。

遠くのことは、遠くのこと。
それは見方によっては「諦め」とも呼ぶだろうね。

でも海があることを否定は出来なくて、波をコントロールすることも出来なくて、自分の力がおよぶのは、結局自分の手の届く範囲だけだ。

分からないものは分からないものとしてほっといて、
手の届かない、分からないものたちは、ちょうど天災のように、とんでもない体積の海や波のように、僕らの力のおよばないものとしてとらえて謙虚にそれを乗り越え乗り越えいくという姿勢で、それで、良いんじゃないかと思う。

なんか、僕らは、視力だけが発達した怯えた動物たちのように思えてくる。
手元を、足元を、だけを、たいせつに。
分からないものは分からない。手の届かないところに手は届かない、という感覚が最近ある。
分からないものは分からないから、それの波にうまく乗ってやり過ごす術に思いを馳せるべきではと。
波を変えてやろうとか、あんまり最近思わない。思わないというか、それより優先すべきことが足元にあるような感じがする。
「諦め」と呼んでも構わないけど、ほんとに手が届くのは、手や足が届く範囲だけで、目や耳が情報を拾える範囲じゃない感じが。


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