去年の三月以降、ずっと一貫して心にあったのは、
「忘れてはいけない」ということでした。そして、
「忘れないように気をつけていないと、絶対に忘れてしまうだろう」ということ。

僕みたいななんでもないひとりに出来るささやかな努力として、
ときどき思い出すきっかけを作るために、くだらないカレンダーを見ず知らずに人たちに受け取ってもらったりしました。

先月、震災から一年が経ったことで、
なんだか「ひと区切り」がついてしまいました。
ほっとくと「忘れてしまう」ちからが、ものすごく強まったように感じています。

カレンダーのあれこれも、活動期間を一年と決めていたので、
その後、自分でも何をしたらいいかよく分からず、
また、震災が過去のものになっていく強い気配のなかで、
「忘れないようにしようね」と声を上げることが、
すごくやりづらく、僕は臆病になってしまっています。

少し前までは、僕や周りの人や、誰も彼もが普通に声を上げて、行動して、
被災地の人たちにとっては、とてもあたたかかっただろうと思います。

今は、
僕みたいななんでもない人には、
ちょっと声が上げづらいです。

知識も豊富でない僕らが声を上げられるような、
なま暖かい環境がなくなってしまった気がします。

少し前までは、なんでもない僕らが上げる声のひとつひとつが、
きちんと跳ね返りあって、いろんな方向へ飛ばし、受け取ることができました。

一方、
何かしたいという気持ちはあるけど、何をしたらいいか分からないという人に、
今でも時々出会います。
僕も分からないし。
分からないから、くすぶった気持ちを隠しながら生活してしまいます。
何をしたらいいか、分からないから、声を上げられない。
「自分は"知識"と"具体的な主張"を持っている」という支えがないから、うまく立ち上がれない。

でね。
僕が今思うのは。

有識者になってから声を上げるのではなくて、
僕は何も知らない、という立場でものを言ってもいいのだと、思っています。
主張したいことを探したい、
何をしたらいいかを探したい、という気持ちのままでも、
それをそのまま声に出していいじゃんか、と思っています。

まずは、
まだなにも知らなくても、
知りたいという姿勢を胸を張ってとることが、きっとすごく大事なんじゃないかと。

震災から時間が経って、何もしなくても自然と情報が入ってくるような状態では、もうないからです。
何もしなかったらどんどん慣れて、忘れていくような、
そういう流れに、僕たちはすっかり乗ってしまっているからです。

だから自分なんて声を上げる資格がないと思うのではなく、
知らないけど、知りたい、という、
姿勢をとることがきっと大事。
忘れたくない、慣れてしまいたくないという姿勢を、
胸を張ってとることが、いまきっと、とても大事なのだと思います。

くすぶっている程度の気持ちだから黙っているのではなくて、
くすぶっている程度でも、
分からないなら「分からない」と、
そう声を上げていいのだと思います。

そうでないと、「忘れてしまうこと」や「慣れてしまうこと」に抗えない。
幸か不幸か、
つらいことがあった時にはいずれ慣れて忘れてしまうような防衛機能が、人には備わっています。
ほっとけば、きっと簡単に忘れられます。

何をしたらいいか分からなくても、
何をしたらいいか知りたいという姿勢をとっていれば、
もしそれでうまくいかなくても、くすぶり続けることは出来るだろうし、
忘れてしまう、というようなことにはならなくて済むだろうと、思うんです。

忘れたくないと思うことと、
忘れてしまっていたことに気付くことが、
いまどんどん大切になっていると思います。

まだもうちょっと、一年前の気持ちをおぼえてたいです。


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